レトロバスin会津【2024.5.3】 晴れ のんびり夫婦隊
福島県 会津若松市
GWは後半を迎えます。会津方面へ移動の際は猪苗代湖畔の長浜で休憩を取ることにしています。
穏やかな猪苗代湖ですねぇ~、長浜に居座っているカルガモがエサをおねだりしていました。
会津若松駅の正面にある白虎隊の像です。
本日は白虎隊にまつわる話しを含め、会津若松市内を歴史探訪します。
レトロなボンネットバス「昭和44年号」に乗車して戊辰戦争(会津戦争)時の史跡をめぐります。
昭和30年代の日本経済成長期はこのタイプのボンネットバスが主流でした。
このバスは岩手県の八幡平地区で路線バスとして活躍した「雪渓号」です。スキー客の送迎もしました。
トラック用の車体にバスボディを架装した悪路・雪道を得意とした四輪駆動のバスです。
このタイプのバスは日本に3台しかありません。貴重なバスに乗れるんだ。「嬉しい~社長!」
バスの特徴は高い床面、木材の床、独特のエンジン音と硬い乗り心地です。
運転席のSW類はシンプルです。スピードは60km/hしか出ません。
パワーステアリングはなく、、、クラッチはダブルです。「ダブルクラッチ、判るかなあ~」
山爺時代の自動車運転免許実技試験はマニュアル車でした。(AT車なしの時代)
エアコンがないので窓を全開にして走行します。
このバスは岩手県~富山県~宮城県を経由して、現在は会津若松市の広田タクシーさんが所有しています。
運転手さんはこのバスを運転したくて入社したそうです。(バスの説明をする運転手さん)
NHK朝の連ドラ、「あまちゃん」「ひよっこ」にも出演したバスです。
本日のテーマは「レトロバスで巡る会津新選組の足跡ともう一つの城物語」です。
講演していただくのは福島県立博物館 学芸員のK先生です。
助っ人に新選組三番隊組長の「斎藤一」さんをお招きしています。
H組長の「エイ、エイ、オー」の掛け声で出陣しました。
会津盆地の田園の中に一台のバス、最初に訪れたのは「神指城跡」です。(「こうざすじょう」と読みます。)
神指城は1598年(慶長3年)、上杉景勝が直江兼続に命じて築城させた城です。
慶長5年3月から工事が開始され、同年6月には城の形が整ったと言われています。
縄張りは本丸と二ノ丸から成る輪郭式の平城で濠と土塁で囲む構造となっています。
本丸の面積は56,000㎡、二ノ丸を含む全域は500,000㎡で若松城を凌ぐ、壮大な城でした。
しかし、築城半ばで徳川家康による会津征伐などの情勢の変化で工事は中断しました。
関ケ原の合戦後、、、
慶長6年、上杉家は米沢30万石に転封となり、神指城は完成を見ないまま廃城となりました。
大ケヤキです。神指城築城を見守っていたかも知れませんねぇ~
ケヤキの根元には東山町の山中から運んで来たとされる本丸の基礎石が置かれています。
この場所に神指城が、、、まぼろしになりました。
1868年(慶応4年)9月4日、斎藤一組長と新選組が守備した「如来堂」が新政府軍に襲われました。
各地で新政府軍の攻撃に敗退する中、土方歳三は庄内藩に援軍を求めるため会津を離れようとします。
斎藤一は会津藩主 松平容保公への恩義から「今、落城せんとするのを見て志を捨て去る、誠義にあらず」
会津を去った土方に対して斎藤一は会津に残留、約20名の隊士と共にこの地で徹底抗戦をしました。
会津藩が降伏、開城した後、斎藤一は隊士と共に斗南藩に移り、苦渋を共にしました。
戊辰戦争では旧幕府軍に従い、新政府軍と戦った斎藤一、、、
明治維新後は警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属し、西郷軍と戦いました。
中野竹子殉節の地です。
この地は江戸時代、旧越後街道が通る交通の要所でしたが、会津戦争の際は戦いの場でもありました。
「中野竹子」さんは22歳の藩士の子女です。
母 孝子・妹 優子などと女性達で一隊を結成し、会津藩に従軍を願い出ましたが許されなかった。
そのため、旧幕府軍の衛鋒隊に加わり、城に向かいましたが「泪橋」付近で新政府軍と激戦。
竹子さんの辞世の歌です。
「武士の猛き心にくらぶれば 数には入らぬ我が身ながらも」の短冊を薙刀に括り付けて奮戦しました。
しかし、敵の銃弾を受けて戦死しました。
八重の桜では「黒木メイサ」さんが竹子役を演じました。
国道49号線と国道118号線を七日町で結ぶ国道252号線に架かる「柳橋」です。
1.キリシタン弾圧で外国人宣教師を含む、約60名が湯川・薬師川原で処刑されました。
2.娘子隊隊長の中野竹子さんがこの地で敵弾に倒れました。
このふたつの出来事から「泪橋」と言われています。
会津藩公行列で中野竹子役を演じた方です。(写真右)
七日町にある阿弥陀寺です。参道の石碑をくぐると左手に御三階があります。
御三階は若松城本丸内にあった建物を移築しました。外見は三階建てすが、内部は四階建てです。
床は鴬張りです。二階から三階に上がる階段は取り込み式になっています。
四階は殿様が本丸内を見渡す場所になっています。正面玄関は本丸内にあった大書院の玄関部分です。
斎藤一の墓は阿弥陀寺境内にある藤田家墓地にありました。
本日のツアー参加者は18名です。添乗員のIさんから線香をいただき、供して合掌しました。
阿弥陀寺参拝後、自由時間となり、七日町通りを散策しました。
会津鉄道の起点となる「七日町駅」です。駅舎内の土産ショップを見て回りました。
TKK時代、旅行会を企画し、「渋川問屋」さんで夕食を摂らせていただきました。(参加者30名)
肉料理の専門店「左雨 」(さっさと読みます。)
全国に左雨さんは約120人いますが、その半分の約60人が福島県人だそうです。
3Fにある「飲んで歌って踊れます。」のカラオケ大歓迎の店の看板が目を引きました。
史跡 若松城(甲賀町口門)跡です。
この石垣は郭外から若松城の郭内に入る門の石垣です。
ここを界として郭内(内側)は侍の屋敷、郭外(外側)を町民の住居としていました。
当時、城下にはこのような門が16ヶ所あり、特に甲賀町口門は大手門として他より厳重な構えとなっています。
このツアー参加者の中に会津藩家臣 石禄800石の子孫Uさんが同行しており、K先生から紹介がありました.
U家の大門は会津戦争の戦火を免れ、残っているのを福證寺が払い下げを受けて、山門として今に残っています。
K先生に質問しました、、、「これらの石は何処から運んで来たものですか。」
解:これらの石は神指城本丸の基礎石と同じく、東山町(東山温泉のある町)の山中から切り出したものです。
天寧寺の車幅の狭い参道をレトロバスがゆっくりと上ります。
駐車場から先は登山道のようで、、、緩やかな傾斜の坂道を歩きます。
坂道の先に近藤勇と土方歳三の墓がありました。
近藤勇は1868年4月、千葉県流山で捕まり、江戸板橋の刑場で処刑され、京都の三条大橋に「さらし首」になる。
その後、首は行方不明となりましたが、会津に運ばれたと当時から噂されています。
この墓石に刻まれている法名は松平容保公が付けたとされています。線香を供して合掌しました。
天寧寺境内から若松城を望む。(写真中央)
本日、最後の訪問地は「滝沢本陣」です。
滝沢本陣は参勤交代や領内巡視の際、殿様が休憩する所です。
会津戦争の際は本営となり、白虎隊もここで命を受けて戸ノ口原戦場へと出陣して行きました。
最後に勝ち鬨を上げて解散しました。
会津若松観光ビューローの企画に参加し、会津の歴史を探訪しました。
阿弥陀寺と天寧寺は個人で来ましたが、、、それ以外は初めて振れて感じた歴史探訪でした。
まだまだ知らない会津の歴史、そして我が街、郡山にも幾多の歴史があります。
そんな歴史を勉強しながら過去・現在・未来を見つめてみたいと思います。