のんびり過ごし隊


 翠ヶ丘公園&大池公園【2021.2.7】 曇り                                              のんびり夫婦隊
    福島県 須賀川市+矢吹町


昨年の同時期はコロナ禍の中で何処へも行けませんでした。自然観察の会で訪れたこと思い出し、、、

孫たちをわんぱく広場で遊ばせたことを思い出し、、、梅の花を観に来ました。

ここは須賀川市にある「翠ヶ丘公園」です。自宅からクルマで約30分の所にあります。

   

梅林広場の梅の開花はまだのようです。

中国南京市から寄贈された苗木も含め、日中友好事業の一環として植樹されました。

スギ花粉情報によると2月中旬からスギ花粉が飛散するとのことです。

野鳥観察(自然観察の会)に来た時、この遊歩道は歩きませんでした。右手は郭のようです。

遊歩道の傍らに歌碑が立てられていました。(遊歩道に数ヶ所あり)

「愛宕山」の案内板をめざして来ると広場に出ました。城跡のようです。

広場に一本のケヤキの大木が立っていました。根元に歌碑が、、、

歌人をWebで検索すると飛鳥時代の官人・歌人「高市連黒人」でした。

須賀川との関りは判りませんでしたが、旅をして詠んだとか、、、ここまで来たのかも。

   

広場の片隅に神社と石碑がありました。目を凝らして案内板を読んで見ると、、、

この広場(愛宕山)は鎌倉時代後期に「二階堂行朝」が築いた須賀川城跡と言われています。

Webで検索してみると、、、

南北朝時代の二階堂行朝とその一族は岩瀬郡を所領とし南朝方に属していました。

行朝は北畠顕家を頂点とする奥州新体制の評定衆(8名)に名を連ね活躍していました。(評定奉行も兼任)

南朝方の拠点であった宇津峰城は1353年(正平8年)に陥落しています。(6年前にも一度陥落)

この時、二階堂行朝は南朝方から北朝方に転じ、名を連ねていたとのことです。

南北朝時代後半~室町時代初期にかけて具体的な記録が乏しく、須賀川二階堂家の系譜は不詳。

「仙道表鑑」によると須賀川城を築いたのは二階堂参河守行嗣(行続)とありました。(築城は1404年以降)

このあと、戦国大名への途へ、、、

前日、歴史研究家 岡田峰幸先生の講義(本)があり、「舘」の謂れ「楯」「館」「舘」の違いを知りました。

「南舘」の案内板があったので行くことにしました。

翠ヶ丘公園内の遊歩道

翠ヶ丘公園マップデータによると公園面積は29.9haあります。(東京Dの約6.4個分)

「南館」は後回しにして、翠橋を渡り「五老山」へ向かいます。

毎年、11月の第二土曜日に二階堂家VS伊達家の戦死者の鎮魂の想いと、この火祭りを守り伝えて来た先人への

感謝の気持ちを込め、五老山で「松明あかし」が執り行われています。(令和2年は規模縮小)

「松明あかし 炎の地」

タイルで描かれた「松明あかし」

   

「三千代姫堂」は五老山と妙見山の間、暮谷沢にあります。(現在は栗谷沢と言う)

須賀川城の落城からさかのぼること約140年前の二階堂家の内紛をめぐる悲話が伝えられています。

二階堂為氏(夫)と二階堂治部大輔(父)の間で城を渡す、渡さないで揉め、為氏はやむなく三千代姫と離縁。

三千代姫はこの地で待ち伏せに遭い自刃。(15歳の生涯)

1589年(天正17年)伊達政宗により、、、会津黒川城主 蘆名家滅亡、須賀川城も落城しました。

因みに蘆名家滅亡後の会津藩主は伊達政宗~蒲生氏郷~上杉景勝~蒲生・加藤・松平時代へと続きます。

小高い丘への階段を登ると妙見山です。

ヒヨドリです。

妙見山から五老山へ戻ります。

小さな松苗は大切に育てられています。

南舘

鎌倉時代の武士の住まいを東北地方では「舘(たて)」、白河以南では「館(やかた)」と言っています。

この違いは何んだろう、、、伊豆半島から伊東一族が安積地方に移住し、開墾しました。

武家の長は開墾した領地を細分化し、一族に分け与えました。そこにそれぞれの住まいを構えました。

読み方に付いては領地を示す「柵」、領地を守る「楯」、「楯(たて)」が関係しているようです。

郡山市富田地区、喜久田地区、日和田地区に「舘」の付く地名が多くあります。

これらの地区に鎌倉時代の武士(伊東一族)の住まいがあったのでしょう。

知人に喜久田在住の伊東さんがいます。鎌倉時代からの伊東一族の末裔かも知れません、、、

新池の太公望たち

わんぱく広場

「石の彫刻の森」を示すオブジェでしょうか。

本日の目的は「1.梅の開花観察」、「2.ウォーキング(一万歩)」、「3.グルメ」を楽しむことです。

翠ヶ丘公園を歩くだけでは一万歩になりませんでした。矢吹町の大池公園を追加し、歩くことにしました。

大池公園の白鳥とカルガモ&バン

   

大池公園隣接の三光稲荷神社で良縁を願い、御朱印をいただきました。

白鳥おじさんがエサを撒いていました。クルマの中に古米の袋をたくさん積んでいました。

折角、矢吹町に来たのだから、、、「ふくしまSHOW 矢吹編」で紹介された蕎麦屋さんに行きましょう。

お食事処「きじの里やぶき ささ川」さんです。「きじせいろそば」を食しました。量の多いこと多いこと。

矢吹町は何んで「きじの里」なの~

矢吹町にはその昔から「行方野」と呼ばれる大野原(約430ha)がありました。

1883年(明治16年)に宮内庁直轄の御猟場になり、「矢吹ヶ原」と呼ばれるようになりました。(雉の狩猟場)

雉肉は高カロリー低タンパク質で貴重なタンパク源として重宝され、祝いの席などで振舞われました。

   

矢吹町のイメージキャラクター「やぶきじくん」と矢筒をイメージした矢吹駅

駅からハイキングで矢吹町を訪れた際、ウッドデッキで「もっきり」を呑んだ「宍戸酒店」さん

「きじせいろそば」をいただいたので雉子塚にお参りして、帰路に着きました。



コロナ禍で運動不足+食べて、食べて、コロナ太りになってしまいました。

体重90kg超、ザック約10kgを背負うと100kgになってしまいます。これでは膝と足首が壊れてしまいます。

ひとりで山歩きばかり出来ないので婆ぁばと歩き始めることにしました。このあと食べてしまえば同じかあ~

ローカル紙などの情報を基に歩かなければ判らないところがたくさんあります。

このコーナーで紹介出来ればいいなあ~と思います。